平和大好きマラソンは和歌山市大空襲を祈念して開催する大会です

和歌山市大空襲


第二次世界大戦中アメリカ軍が1945年7月9日深夜から10日未明にかけて和歌山市中心部に爆撃をした事件です。
テニアン(サイパンの近く)の飛行場から出撃したB29爆撃機が約3,100~3,500mより和歌山市上空に進入し、23時36分に河西部の湊河口付近へ照明弾を落として、爆撃を開始した。
紀の川駅周辺を爆撃し、和歌山市駅、ぶらくり丁、県庁付近を中心に焼夷弾を落とし一般市民を無差別爆撃をした。


死者 - 1,208人 重傷者 - 1,560人 軽傷者 - 3,000人 行方不明者 - 216人
被災者 - 113,548人 焼失家屋 - 31,137戸  内務省警報局宛報告による

 

 

戦時中の学校について 佐藤須磨子さんより

佐藤須磨子さんの生い立ち
和歌山県有田郡五村北ノ川 1930年8月24日生まれ (現在有田川町清水)
この年に満州事変勃発 生まれた時から戦争だった。

 

学校の仕組みと進路
数え歳の8歳で入学 1年生  尋常高等小学校 義務教育 支那事変が起こる)
    9歳    2年   
   10歳    3年   クラス分け、男女別々
   11歳    4年   国民学校になった、学校の名前が変わった
   12歳    5年生  大東亜戦争開戦 戦争が激しくなった
   13歳    6年生  卒業後はそれぞれ道が分かれる
働きに出る者、家業を手伝う者に分かれる
(制度的には、本来はこの後2年間義務教育で授業料なし) 
一部は進学、男子は中学校、商業学校、工業学校に行った。    
女子は高等女学校、家政女学校(2年生まで)
高等女学校の上に専攻科があった(4年制と5年制があった)

14歳    高等女学校1年
15歳         2年
16歳         3年生の途中、夏休み中に終戦を迎えた。 

学校では 勤労奉仕で農家にお手伝に行かされた.
学徒動員 工場へ行って戦争に使う兵器を作るために行った。

 

男子は15歳で少年飛行兵として志願していく。
それは、軍隊へ行ったら、家では食べるものがないから、入隊したら食べれるから行った
教育で精神を叩き込まれて、少年飛行兵は、学校へ割り当てが来て行った。
女学校でも、男の先生がいたが、召集令状が来て軍に行った。
男の先生がいないため、女の先生、年寄りの先生になってしまった。
女の先生も「産めよ殖やせよ」の世の中で、《兵力と労働力の増強の目的で、一家庭平均で5人以上の子ども作れと、閣議決定》の出産休暇で休み満足な教育を受ける事が出来なかった。
疎開できた大学教授の話は高等すぎて分からない状態でした。

戦争中は、商売人は店を閉めて、徴用で工場に行った!
物資は配給制度で切符をもらって(家族の人数で、家族割で支給された)これで日用品の配給で行列してならんで交換、大根1本を2,3軒で分けた。
汽車に乗るにも、並んで買った!並んでもなくなるとそれまでだった。
戦時中でも物がある者は物々交換をしていた。

 

私は、ある時、汽車の連結部に乗って田辺から東和歌山駅まで帰ったこともある。
買出しのため満員で客室に入れず、連結部につかまったままでいた。
お風呂も10日に1回位、石鹸がない、着替えがないから、洗濯も出来ない、洗濯したら乾くまで裸でいなければならない状態だった。それでもある所には十分、物があった。


女性で生理がある時期ですが、栄養が不足で発育状態が悪く初潮が遅れた。

ある時、デートがばれて、退学になった子がいた!(デート=逢引)
女学校生徒で、ただ二人で話をしただけが見つかり退学させられた。
風習として、「男女7歳にして席を同じくせず」の日本であった。
尋常高等小学校では、三年生で男女別々のクラスになった時代、一昔前は女には教育はいらん!とも言う世の中であった。

 

国民学校六年生の奈良の修学旅行は米2合(約300g)を持って行った。お小遣いは1人3円であった。(約今の2000円ぐらいか)
女性は、もんぺ、木綿の着物は派手なものはダメ、ブラウスは着られたが木綿の着物をバラして作った。
恋はだめ、パーマもダメ!「欲しがりません、勝つまでは」から、「進め一億火の玉だ!」と叫ぶ世の中だった。
戦況は激しくなってきた時は、「最後の一人になるまで戦う」「最後は神風が吹く」と教えられ、これを信じていた!洗脳されていた。
尋常高等小学校1年の時の修身教科書は「ススメ、ススメ兵隊ススメ」「キグチコヘイ ハ テキノタマニ アタリマシタガ シンデモ ラッパヲ クチカラハナシマセンデシタ」などの教科書だったからです。
教育の力は恐ろしい、「日本は世界平和のために戦っていると」教えられた。
本当のことを教えられず、戦況悪化でも「わが方の損害は軽微なり」を信じていた。
統制された新聞だけで情報を得ていた。


芸能人は現地に慰問に行っていた
芝居、映画も全ての娯楽は中止となり、オリンピックもない、プロ野球も選手に召集令状が来て出征して、プロ野球がなくなり、高校野球も中止、和歌山で有名な投手の島投手も戦場に行き亡くなった。生きていれば凄い選手だった。

 

広島に原爆が落とされた時は、さすがに新聞では、新型爆弾で今後100年草木も生えない」と書かれていた。
女性は、戦時中に結婚した場合は、「産めよ殖やせよ」だった、
1920年代生まれに人は、男性が兵隊に行き、結婚相手はなく一生独身を通した方が今、介護を受けています。

敗戦後は、進駐軍が来ると、女の人は暴行の危険を避けるために表に出るなと言われ、頭も丸刈りにされた人も有った。(引揚者には多かった)
こんな事を伝えるのは、実際つらい、でも伝えなかったら日本はどうなるか分からないから話をするのです。
平和でない時代を生き抜いたから、今の平和をいつまでもと願い、命のある限り戦争の時の話しをします。
憲法を変えることなどいりません。70年間、戦争をしなかった日本です。
現在、こんなにスポーツを楽しめるのは平和のおかげです。


2017年 第14回反核平和マラソン

2017年5月14日高野山からかつらぎ町役場まで核兵器廃絶・戦争反対をアピールし38.5キロを無事走りました


高野町、九度山町、橋本市、かつらぎ町後援、各自治体からメッセージをいただきました

歴代最年少・小学5年生女子ランナーが参加です、元気に走る姿にみなさん力をもらいました

5月28日(日)

かつらぎ町役場から国道24号線を西へ和歌山城(和歌山市役所前)まで38.5キロ

核兵器廃絶をアピールし走りました

ランナー&スタッフ17名

応援差し入れの方も来ていただきました

初夏の清々しい風を受け無事にゴールでき

充実した1日になりました